02 性への気づき
03 男、ではある。でも・・・
04 心が爆発してしまった
05 自立に向けて
==================(後編)========================
06 病気、再発
07 運命の出会い、そして妊娠
08 母になる
09 自分を縛っているのは自分
10 許すこと、認めること
01ずっと、ひとりぼっちだった
みんなと同じことができない
まわりの子たちが普通にできることが、自分にはできない。
そう気づいたのは、幼稚園の頃。
整列して「右向け右」の号令がかかっても、ひとりだけ右を向けない。
お遊戯会の練習で、みんなと揃ってダンスをする時も、振り付けどおりに手足が動かない。
「頭では右を向くんだ、こうやって踊るんだとわかっていても、体が動かなかったんです」
普通ならクラスに1人2人、覚えが遅かったり体を動かすのが得意でない子がいても不思議はないだろう。
しかし運悪く、幼稚園でも小学校でも自分の周りは ”できる子” ばかりだった。
「でも逆に、みんなができないことが自分は簡単にできる、ということもあったんです」
「小学校低学年の頃から、大人が読むような医学書を読めたりとか。でも、できることよりできないことのほうが圧倒的に多くて」
みんなの目には、自分は異端児として映ったのだろう。
いじめのターゲットになった。
仲間はずれにされるのはもちろんのこと、教科書を捨てられたり、ランドセルを奪われ、どぶに捨てられたり。
「先生にとっても自分はお荷物だったのでしょう。”できない子” ”言うことが聞けない子” というレッテルを貼られてしまいました」
すると、ますますいじめがエスカレート。
クラスの男の子たちが全員で砂利を投げつけてきたこともあったが、先生はそれを見て見ぬふり。
「いじめられて辛かったというより、なんで自分は他の子たちと同じことができないのか、そのことのほうが辛かった」
母親からも存在を否定される
そんな自分は、母親にとってもお荷物だった。
「2歳年下の弟がいるのですが、彼は普通に何でもできる子。母親としては『・・・・・・なのに、どうしてあんたはできないの?』という思いがあったのでしょう。イライラしているようでした」
自分の娘を ”できない子” のままにしておきたくなかったのだろう。
しつけは、時にエスカレートした。
「ある日、学校からのプリントを母親に渡し忘れたことがありました。すると、『なんで、あんたは!』と竹刀を手に追いかけ回されて」
父親も厳格な人だったが、母親に対しては「そこまでやらなくてもいいじゃないか」と批判的だった。
だから母親は、父親がいる前では自分に手を出さない。
そのぶん、父親が留守の時には、しつけは厳しさを増し、言葉によっても激しく責められた。
「小学校4年生の頃だったと思います。ある日、弟が学校で『おまえのねえちゃん、おかしい』とからかわれたことを家に帰って母親に言ったんです」
「すると彼女は、『あんたのせいで弟がいじめらえるのよ!』って」
なんだ、じゃあ自分は生まれてこなかったほうがよかったんだ・・・・・・。
死のう。
自死の方法を本で調べ、首をつろうと考えた。
しかし、未遂に終わる。
「弟には、ふだんから死にたいと言い続けて、いよいよ実行するからと話しておいたんです。それが母親に伝わって」
「彼女は『なんでそんなことをするの!』と泣き叫んでいました。娘のことを心配してなのか、なぜ私の手を焼かせてばかりなの! という気持ちだったのか・・・・・・」
そんな母親の姿を見ても「心配かけてごめんね」とは思わなかった。
「あなたがしている仕打ちを考えれば、死のうと思うのは当然でしょ、って」
「かなり冷めた目で母親のことを見ていましたね」
診断こそついていないが、自分が発達障害だろうということを、大人になってから知った。
02性への気づき
男と女、自分は・・・・・・どっち?
それでも母親のしつけは、ゆるむことがなかった。
「実の母親に、どうしてここまで否定されなくちゃいけないんだろうと思っていたけど、歯向かいはしませんでした」
「家から放り出されたら生きていけないから、何をされても大人しくしていないと、と思って」
実は、幼稚園に通っていた頃から薄々、自分のセクシュアリティに疑問を持ち始めていた。
母親は娘を、当然のこととして ”女の子らしさ” を強制した。
髪の毛を長く伸ばさせ、フリルのたくさんついた洋服を着せる。
自分はおままごとや、シルバニアファミリーで遊ぶのも好きだったが、
車や電車にも興味があり、ミニカー遊びも大好きだった。
だが、母親はそれが気に食わないようだった。
「幼稚園の制服がセーラー服だったのですが、それを着るのがイヤでイヤで」
「でも、母親は何が何でも着させようとするので仕方なく着て家を出て、幼稚園に行ってからわざと汚して男の子用の制服を着せてもらったりしていました」
母親に ”女の子らしく” させられることがイヤということは・・・・・・そうか、自分は男なんだ。
そう思った。
「思ったというより、思い込んだ、というほうが正しいかもしれません。今になって思い返すと、女の子用の服を着るのはイヤだったけど髪の毛が長いのは特に気にならなかったし、女の子の遊びも好きだった」
「だから、自分は女なのか男なのか、本当はわからないでいたと思うんです」
「母親に、女の子らしさを強制されなかったら、ひょっとすると『男なのかも』とは思わなかったかもしれない。実は、同じように感じているFTMって、少なくないんです」
女の子を好きになった
5年生の時、父親の転勤にともない転校。
幸いなことに、それから2年間はいじめを受けることなく、平穏な日々が続いた。
が、中学に進むと再び、クラスの中で浮いた存在に。
中学生といえばそろそろ思春期にさしかかり、とくに女子はませているから自分の性を強く意識しはじめる。
そのぶん男子を「自分とは違う生き物」と思うようになったりするようだ。
「だから、クラスは女子対男子、みたいになるわけです。ところが自分は、そのどちらにも属せない」
みんなで連れだってトイレに行ったり、派閥を作りたがる女子たちの中では、どうも居心地が悪い。
かといって、男子の中に入り込むこともできなかった。
小学校時代のような、見てわかるようないじめを受けることはなかったが、”変わっている子” としてなんとなく排除されていることを感じた。
「できないことはできない、イヤなことはイヤ、とはっきり言うタイプだったので、当然、同調を求める日本文化にはなじまないわけです(笑)」
「男子からも女子からも『空気読めないヤツ』『おまえ、なんで日本にいるんだ?』と思われていたんじゃないでしょうか」
中学3年の時、ある女の子のことを「好きだ」と思った。
女の子を好きになるということは、自分はレスビアンなんだろうか。
いや、自分が女ではなく本当は男なのだとしたら、レズビアンではない。
自分は男、女、どちらの気持ちで彼女に惹かれているのだろう。
「実は、性同一性障害(GID)のことは小学校6年生くらいから図書館に行って医学書で調べたり、インターネットで調べたりして、知っていました」
「でも、はたして自分がそれに当てはまるのか、今ひとつわからなくて」
自分は女なのか男なのか答えが出ずに悩んでいた。
いずれにしても彼女のことを「好き」という気持ちには変わりがない。
卒業間近だったこともあり、どうしても思いを伝えたくて、告白。
「彼女は驚いたのか、少し黙った後、どこかへ行ってしまいました。その後、告白した子の友達がやってきて、『おまえ、ふざけんな!』って」
03男、ではある。でも・・・・・・
自由な校風に救われる
失恋はしたが、彼女を好きになって、これまでもやもやしていたセクシュアリティの問題と真正面から向き合うことができた。
「その結果、やっぱり自分は男なのだ、と思うようになりました。とはいえ、その確証はなかったのですが」
高校に入ってしばらくした頃、親には何も言わず、保険証を持ち出して自分ひとりで病院へ行った。
「本当はGID外来に行きたかったのですが、家の近くにはなかったので、近所の精神科へ。自分史を書いて持って行き、GIDと診断してほしいと頼んだんです」
「その医師はGID専門医ではなかったのですが、『おそらくGIDだろう』と言われ、その向きの診断書を書いてくれました」
進んだ高校は男女共学。
制服があった。
最初は女子の制服を着て通ったが、診断書を携え事情を話すと、先生は男子制服の着用を認めてくれた。
そして、多目的トイレの使用も。
事実上、これが初のカミングアウトだった。
「生徒自身が授業を選択して学習計画を立てるという、生徒の考えや意思を尊重する総合学科高校だったので、もともと自由というか、固定観念に縛られない校風でした」
「だから、自分はGIDだろうと思うと話しても教師は『そうか』という感じで(笑)」
生徒たちも、何物にもとらわれない自由な人ばかり。
「授業選択一つとっても、自分の考えや個性を持っていないとやっていけない学校だったので、人と違って当たり前の世界」
「みんな自分の個性を強く主張するけど、他人の個性も尊重するので、自分としてはようやく居場所、というか ”居ていい場所” が見つかった感じがしました」
男子の制服を着て行くと、クラスメートたちの反応は「似合うじゃん。おまえらしくて、いいじゃん」。
それによって自分がGIDであることが知られたわけだが、それについて彼らからは特に何も言われなかった。
新宿二丁目デビュー
「実は、GIDの診断書をもらってもまだ、『本当はどうなんだろう?』という思いは消えなかったんです」
だから、たまに女子の制服が着たいと思うと、着て行った。
「それでも、クラスメイトたちは『お、今日はまたどうしたの?』と言うくらい。『両方着るなんて、おまえ、ずるいな』って(笑)」
そうした環境のおかげで、自分のセクシュアリティについての結論を急ぐ必要はなかった。
「でもそれで、かえって迷うことになってしまったんですけど(笑)」
ネットや本の情報から、新宿二丁目がゲイタウンであることを知り、よく出かけた。
もちろんアルコールは飲めないので、目的の地はゲイショップ。
「そこでいろいろな情報や知識を得るうち、自分はFTMだということは確信しました」
「ただ、恋愛対象が女性なのか男性なのかは、わからない」
確かめるため、と言うと語弊があるかもしれないが、「いいな」と思った女の子とつきあってみた。
でも、何だかしっくりこない。
「そうか、自分はFTMのゲイなんだ。そう思いました」
04心が爆発してしまった
家出、そして同棲
学校での生活はこの上なく快適だったが、家、とくに母親との関係は相変わらずだった。
「さすがに、小中学生の頃のように竹刀を持って追い掛け回されるようなことはなかったですけど、自分のことを母親は理解しようとはしてくれなかった」
「彼女にとって自分はやはり、ダメな娘だったんです」
男子の制服を着て高校に通い始めたり、かと思えば女性制服を着てみたり。
そんな娘を見て母親だけでなく父親も混乱し、どう接していいか途方に暮れたのだろう。
ある日、「おまえは好き勝手にやりすぎだ!」とひどく怒られ、それをきかっけに家出をした。
高校に入学して半年後のことだ。
「当然、持ち出す家財道具なんて何もなく、身一つで飛び出しました」
二丁目で知り合った年上の彼氏が保証人になってくれたことで、部屋は意外とすんなり借りられた。
「家賃と生活費は、アルバイトで稼いで賄いました。今思うと、よくやれたものだと思います。必死だったんですね」
その半年後、新しくできた10歳近く離れた彼氏のもとに転がり込み、同棲を始めた。
病気、発症
年上の恋人との同棲生活は1年半続いたが、大学に進むために家に戻ることにした。
「子どもの頃から医学書を読んでいて関心を持っていたこともあって、医学部に進みたいと思ったんです」
ところが、家では母の激しい言葉が待ち受けていた。
「具体的にどんなことを言われたのか覚えていないのですが、母はものすごい剣幕で、自分のことを人として否定するようなことを、まくしたてて」
「そんなこと言をうなら、自分なんて生むなよと思うくらい、徹底的に人格を否定されたんです」
何も考えられなくなってしまった。
その後、自分はどうしたのだろう。
記憶がほとんどない。
少し前に知り合い、仲良くなったバイセクシュアルの友達が自分の症状に気づき、病院へ行くよう促された。
「彼女自身、躁鬱病で、あなたもそうではないかと。彼女に連れられて、両親と一緒に精神科を受診しました」
医師の診断は「解離性同一性障害」。即、入院となった。
「母親とのやりとりの前後のことを、まったく覚えていない」
「そして実は、中学時代のことも、自分には友達がほとんどいなかったこと以外、毎日何をやって過ごしていたのか、ほとんど記憶がないんです」
医師によれば、それは解離性障害の典型的な症状だった。
解離性同一性障害とは簡単に言えば、強い葛藤に直面した場合、その体験に関する意識の統合が失われ、自分が誰でありどこにいるのかということが、わからなくなってしまう障害のこと。
ある出来事の記憶がすっぽり抜け落ちたり、いつの間にか知らない場所にいる、などの症状が出る。
「言われてみれば、買った記憶がない物やレシートが家にあったり、気がつくと知らない場所にいたこともあったんですよ」
病気のため大学進学は断念。
高校にも一度は復学したが、卒業まで半年を残して辞めてしまった。
05自立に向けて
ホルモン治療を始める
娘が病気になり、その原因は家庭環境、おもに自分との関係にあると医師から言われたのだろうか。
母親は、こちらの体調を心配してくれるようになり、以前のようなひどいことも言わなくなった。
おかげで少し楽に暮らせるようになり、病気も少しずつ回復。
高校を辞めた後、2〜3か月派遣社員として働いた。その後、居酒屋のオープニングスタッフに。
「もともと料理が好きで、中学を卒業したら高校に行かず料理の世界の入ろうと思っていたくらいなので、これはいいと」
「料理を作り、ホールに出て接客もし、経理もやって・・・・・・と店のすべての仕事を経験しました」
オープンしたばかりというフレッシュな環境で、いろいろなことを経験できることが楽しかった。
「その頃はまだ、女性として働いていました。外見的にも、女性にしか見えなかったから」
だが、20歳になったことを機にホルモン治療を開始。
治療費にはもちろん、自分で働いたお金をあてた。
「両親には、そのタイミングでカミングアウトしました」
「実は高校時代にも伝えていたのですが、親はこちらが本気で言っているとは思わなかったみたいです」
あらためて、自分がFTMであることを伝えると、父親は「そうか。育て方を間違えたかな」と言い、母親は「女の子だと思って育ててきたのに」と渋い顔をしていた。
しかし二人とももう、自分に ”女性らしく” いることを強制しなかった。
「弟は、『まあ、ねえちゃんはそうだと思っていたよ』って。彼はやっぱりいちばん近い存在だから早くに気づいたんでしょう」
「今でも、自分のことをいちばん理解してくれているのは、弟だと思います」
ダイビングが心に安らぎをくれた
ホルモン治療とほぼ同時に、ダイビングを始めた。
きっかけは何だったか、よく覚えていない。
すぐに、その面白さにハマった。
「稼いだお金をすべてつぎ込むくらい、夢中になりました。ダイブマスターの資格を取り、そのうち趣味と実益を兼ねたくて(笑)」
「インストラクターのライセンスも取って、全国あちこちの海に潜りに行きました」
ダイビングにハマったのは、海の中が美しかったから、だけではない。
病気の治療中、医師から自閉スペクトラム症の可能性もあることを指摘された。
「人と同じことができない、コミュニケーションがとりづらい、というのも自閉スペクトラム症からくるのではないかと」
「さらに、自分は子どもの頃から五感が過敏で、とくに聴覚については普通の人が聞こえない音まで感じ取ってしまい、つねに雑音の中にさらされているような感じでした。それも、スペクトラム症の症状の一つらしいんです」
ところが、潜っている時はその症状が軽くなる。
海の中はほとんど音がなく、あるとすれば遠くから聞こえる船の音くらい。
「だから地上にいる時より断然心地よくて、心身ともに解放される。ダイビングを始めるまでは味わったことのない感覚でした」
さらに自分の心を安らげてくれたのは、ダイビング仲間の存在だ。
「通常、海にはバディ、仲間と一緒に潜ります。海の中では危険と隣合わせ。命がかかっているので、潜っている時はお互いに協力し合わないと安全なダイビングはできないんです」
海の魅力を堪能するためには、まずバディを信頼することが大事。
お互いにそう思うから、自然と仲良くなれるのだ。
よけいなことを考えず、最初から心と心でつながれる。
過去にいじめられた経験、そして病気のせいもあって人づきあいが苦手な自分にとって、それは非常にありがたかった。
「ダイビング仲間には最初から、自分がFTMであることを伝えていました」
「みんな『いいんじゃない?』『海の中には、性転換する魚もいるしね』って(笑)」
命の危険にさらされたことも一度や二度じゃないという人たちなので、目の前の人間が男のなのか女なのかなんて・・・・・・。
そんなことはどうでもいいと感じた。
<<<後編 2017/06/03/Sat>>>
INDEX
06 病気、再発
07 運命の出会い、そして妊娠
08 母になる
09 自分を縛っているのは自分
10 許すこと、認めること