02 4歳で生まれ故郷を離れて
03 男としての自分に抱く嫌悪感
04 男の子なのか女の子なのか
05 少しずつ少しずつ社会に触れて
==================(後編)========================
06 男女の区分けは必要なのか
07 セクシュアル・マイノリティの自覚
08 性別を超えて好きなだけ
09 北海道から遠く離れてみて
10 自分に素直に肩の力を抜いて
01耳の障がいも自分の体の一部だから
理由なき病
生まれてしばらくして、物心が付いた時には、すでに耳に障がいを抱えていた。
ただ全く聞こえない、というのではなくて、補聴器を付ければ、大まかな音は拾うことは可能。
しかし他人の口からこぼれる細かな発音や、高い音を聞き分けることはできない。
よって健聴者に比べると、発話による意思伝達は困難。20歳になった今も、手話が主たるコミュニケーション手段だ。
「それでも、ゆっくり話してくれる人だと、口元を見ていれば何を言っているのか、理解できることも多いです。あと僕も手話だけでなく、そのとき伝えたい言葉が思い浮かべば、たとえそれをうまく発音することができなくても、声にすることにしています」
「健聴者のようにきちんと言うことはできないけれど。うまく発音できなくても、手話だけでなく口に出したほうが、自分の気持ちもより伝わると思うからです」
耳に障がいを負った理由を、両親からはっきりとは聞かされていない。
「0歳のときに高熱を出したと聞いたことがあるので、それが原因かもしれません。いずれにせよ、まだ言葉を認識することもできなければ、話すこともできない歳に患った病気。本当のところは生まれつきかもしれないし、難聴の理由ははっきりとわからないんです」
聴覚がないだけ
ただ手話や発話、身振り手振りやその眼差しから伝えられる佐藤さんの意思表示には、健聴者と同じくらい、いやそれ以上の真摯な姿勢が感じ取れる。
一般の人が難聴者や聾の人に思い描く悲壮感や不自由さとは、まるで無縁だ。
「今まで多くの人に支えてもらって、自分が難聴者だということを、ほとんど気にしないでも済むように生きて来れたんです。あとは中学生のとき、母が僕に言ってくれた言葉の存在も大きい。『人間は目と耳と鼻と口と手と足があれば、どこにでも行ける。涼太郎はその耳が、偶然、なかっただけ。目もあるし、他のものもある。まだまだ何だってできるし、どこにだって行けるんだよ』って言ってくれたんです」
「母にしたって、僕を健聴者として育ててあげたかったという気持ちで、辛かったとは思うんです。でも、そこは受け入れて、その上でエールを送ってくれた。この言葉に背中を押されて、僕は今親元を離れ、下宿して大学に通えています」
「でも最近、母にこの話をしたら、全く覚えていないと言うんです。あれっ、私、そんな話をしたっけ?って。でも、こう言ったことを忘れてしまうくらい、涼太郎は耳が不自由でも生きていける、強い子だって、きっといつもどこかで思ってくれていたんでしょうね」
そして母のその予感は正しかった。
少しも卑屈になることなく、真っ直ぐ対話者を見つめる青年。
それが20歳の佐藤さんだ。
02 4歳で生まれ故郷を離れて
母と2人で
「とは言え、母も僕に耳の障がいがある、と初めてお医者さんから伝えられたときは、ショックで泣いてばかりいたそうです。でも泣いていても仕方がないと思い、父と話し合って、僕を釧路の聾の幼稚園に入園させることにしたんです」
生まれ故郷の北海道・中標津町には、聴覚障がい者クラスのある幼稚園はなかった。
そこで両親は、幼稚部だけでなく小学・中学部でも聾者向けの教育を行っている釧路市内の聾学校に息子を進学させることに決めた。
4歳の春、釧路に借りた家に母と引越し、入園。週末だけ、父親が中標津から釧路にやってくるか、もしくは母と自分が中標津に帰る。
基本、父親と離れ離れの生活が始まった。
「聾学校といっても、学年に児童は1人しかいません。先生がしっかり付いて教えてくれるし、校内にも健聴者の児童はいない。上級生も自分と同じように難聴者だから、耳が聞こえにくいことに特別、劣等感を覚えるような環境ではなかったんです」
自分がいわゆる“普通の人”と違うと感じるのは、週末に公園に遊びにいったときくらい、だったという。
「たとえば砂場なんかで遊んでいると、健聴者の子に話しかけられることもありました。何か話してるな、というのは分っても、やっぱり内容は分らなくて。で、ちょっと困ったような顔をされて、ああ自分は耳に障がいがあるんだなって、再認識はさせられるんです。けれど、月曜日になって学校に行けば、周りは聾の子ばかりだから、週末の嫌な気分は引きずらない」
「環境のせいもあってか耳が聞こえなくて差別された、という記憶がほとんどありません」
初恋と違和感
幼稚部から中学部までの一貫教育。
しかも同級生はいないとなれば、全学年合わせても10人強の小所帯。
学校といえど、どこか家族のような雰囲気があった。
「先生とマンツーマン、と聞くと息苦しかったり、気が合わなかったらどうしよう、と思われるかもしれませんが、どの先生も生徒の個性を尊重してくれる人ばかりで。本当に恵まれた環境で育ったと思います」
そんな日々の中、初恋は4歳のときに訪れた。
ひとつ年上の女の子のことを好きになった。
「家も近かったので、いつも一緒にいたんです。つたない手話や口話で、学校でもお互いの家でも、ずっと話していました。彼女と話していると、楽しい」
「だから好きになったんだと思います」
次の恋の相手は男の子だった。
6歳のとき、同じ幼稚園の年下の子を好きになったのだ。
「どうして男も女も好きになるのか、と不思議には思いませんでした。相手が男だから、女だから好きなのではなく、その人自身に恋をしていたから。そこに性別の壁はありませんでした、まだ幼いこの頃から、そうだったんです」
その男の子は、小学部に上がると、転校してしまった。
03男としての自分に抱く嫌悪感
男だから泣かない
小学生になっても、周りの環境は大きく変わらない。
自分と同じように耳に障がいをもった児童たち、優しい先生、平日は母とふたり、週末は父も加わって3人の生活。
幼稚園の頃と同じだ。
「そんな中で違和感を抱いたのが、小学生3年生のとき、自分が泣いていたら先生が『涼太郎くんは男の子だから泣かない!』って叱ったことでした。どうして女の子は泣いていいのに、男の子は泣いちゃいけないんだろうって、不思議に感じて」
しかし、そんな悩みも束の間だった。
また普段の生活が戻って、違和感も薄らいでいく。
このままの平穏な日常が、ずっと続くと思っていた。
成長期を迎えて
しかし、ただただ心地良いだけの日々は、いつまでも続かなかった。
しかも穏やかな日常に波風を立てたのは、他者ではなく自分の存在だ。
小学校5年生になった頃、自分に対して、嫌悪感を抱き始めたのだ。
「たとえば鏡で自分の顔を見るだけで、嫌な気持ちになりました。なんで男の顔をしているんだろう、って。成長期で身体にも変化が出始めますが、その全てが嫌だった。かといって、女性のような顔がいい、というわけでもなくて」
「いろいろ調べてみると、今、自分が体感していることは、男の子が大人になる上で必要なことだと分ったんですが、そうやって自分が男として成長していくこと、もっといえば、男であると人括りにされるのが嫌だったんです。自分の中には、そうやってひとまとめにできない部分があると感じていたから」
自分の身体が男性化することにはあらがわなくても、幸い学校では、1学年にひとりしか生徒がいないこともあって、「男子」「女子」と区分けして学生や先生に認識される機会も少なかった。
先輩に相談しながら、徐々に自分の変化とも折り合いをつけ、理解するようになっていった。
04男の子なのか女の子なのか
性別はその日の気分
しかし小学校高学年の自分の中で、ときには男の子らしさが顔を出したり、女の子らしさが芽吹いたり。
表には出さないながらにも、感情の起伏は日々、訪れた。
「当時は『どうぶつの森』というテレビゲームにハマっていました。主人公の性別を自分で設定できるからです。そのときの気分で、男にしたり女にしたり。このゲーム感覚、軽いノリで、人間もその日の気分で性別を変えられたらどんなにいいだろう、と思っていました」
漫画や小説のなかで恋愛に触れても、自分の心の琴線に触れることはなかった。
「ああ、この人たち、恋をしているんだなぁ、って思うだけでした。ものすごく客観的な感想です。男の側にも、女の側にも肩入れして読めない。どちらかというと、そういう男女の恋愛要素が薄い、ファンタジー小説の方が好きでした」
学校の友達と遊ぶときも、同様の心の揺れがあった。
女の子の家でままごとをするときもあれば、男の子と公園で活発に鬼ごっこもする。
男の子と遊んでいるから、女の子といるから楽しいのではなくて、ただその人が好きで、同じ時間を過ごしていたのだ。
反抗期なき青春
こうして自分の中に二面性を感じながら、中学部に進学した。
上級生も知っている顔ばかりで、あまり環境の変化はない。
「学校の変化はなくても、ちょうど思春期なので、家庭では親に反発する、反抗期が訪れてもおかしくない年頃ですよね。でも、僕の場合、それもありませんでした。母は勉強しなさい、とうるさかったけど、それをうっとおしいと思うでもなく、従っていました」
「あとはマナーにもうるさかったです。公共の場では静かにしなさい、人に会ったら挨拶をしなさい、という基本的なことから、友達の家に遊びに行ったら必ず靴を揃えてお邪魔しなさい、手土産を持っていきなさい、といったことまで」
「聾学校の中で限られた人数、知っている人ばかりと過ごしていると、ついつい礼儀やマナーがいい加減になりがちなんです。そこを厳しく躾けてくれたことには、反抗するどころか、逆に今でも感謝の気持ちでいっぱいです」
週末に会って遊ぶ父も、気楽な人だった。
こちらは勉強をしろと押し付けることもないので、ただただ一緒に遊ぶ休日だった。
05少しずつ少しずつ社会に触れて
小学校の交流会
幼稚部から聾学校に通っていたため、日常ではほぼ健聴者と触れ合う機会はなかったが、小学校高学年になると、年に数回、他の学校との交流会が催されるようになった。
「それまでは公園で健聴者と出会っても、コミュニケーションが上手くいかなければ、避けることもできました。でも交流会となると、そうもいきません。口元を読みながら、自分も筆談や口話で相手に気持ちを伝えようとするけれど、互いにまだ小学生、そううまくいきません」
「交流会の度に、ああやっぱり自分は健聴者とは違うんだ、と落ち込みました。でもそれも年に数回のこと。日常に戻れば、難聴者の学生しかいないので、嫌な気持ちもすぐに忘れることができるんです」
健聴者とうまくコミュニケーションが取れないということは、この段階ではまだ、大きな悩みではなかった。
加えて、嬉しかったこともある。
「中学2年生の交流会のとき出会った健聴者の男の子が、筆談で一生懸命、僕とコミュニケーションしようとしてくれたんです。彼から話し掛けてくれて、他の人の言っていることも筆談で伝えてくれたり。気持ちさえあれば、健聴者とも上手くコミュニケーションできる」
「今思えば、そう思わせてくれたきっかけが、彼だったかもしれません」
性と向き合う時
そうして釧路の聾学校の中等部を卒業する日が近づいて来た。
この学校には高等部は存在しなかったため、進学先を探さねばならなかった。
「札幌にある高等養護学校に進学することにしました。北海道じゅうから耳に障がいを持った人が集まって勉学に勤しむ場ですが、実家から離れた場所に学校があって通えない人も多いので、寮が用意されていました」
「僕も地元を離れて、寮で生活をしながら、学生生活を送ることになったんです」
始まった高校生活。そこである問題に直面する。
様々な局面で男女に分かれて生活を送ることに違和感を覚えたのだ。
「同級生は19人、学校全体でも60人くらいしか学生はいませんでした。一般的にそうであるように、寮も男女で分かれているわけですが、今まで1学年に1人しかいないような小さな規模の学校で育ってきた僕には、そうやって男と女に分けられること自体が初めての体験だったので、居心地の悪さしか感じませんでした」
「結局、男子寮に入れられるわけですが、どうして自分は男子に分類されるのか、今まであまり性別を意識しないで生きてきた僕には、分からないことだらけでした」
高校に入って、初めて自らの性別を意識せざるを得なくなった。
その違和感は高校生活を通じて、より大きなものになっていく。
<<<後編 2016/05/13/Fri>>>
INDEX
06 男女の区分けは必要なのか
07 セクシュアル・マイノリティの自覚
08 性別を超えて好きなだけ
09 北海道から遠く離れてみて
10 自分に素直に肩の力を抜いて