02 活発だった小学生が一転、登校拒否に
03 セクシュアルマイノリティではないか
04 イキイキと生きてないという窮屈さ
05 制服が自分を解放してくれた
==================(後編)========================
06 初恋
07 初めての交際相手は男の子
08 家族へのカミングアウト
09 男と女のハイブリッドとして生きていく
10 LGBTであることを面接で積極的に告白
01いまの自分をパーセンテージで表すなら、男性が50で女性が50
ファッションは自分を表現する大切なツール
ファッションは、自分を表現する大切な要素だと思っている。
いまは個性的な中に少女らしさがある服装が、好き。
ゴシックロリータにも興味があり、全身いわゆる『ゴスロリファッション』を身にまとっていたことも。
今日は男の子でいたいのか。女の子でいたいのか。
自分の気分をファッションで表す。
日によって「着たいもの」が大きく変わるから、イメージも変わる。
最近は女の子の服装が9割。
それがいまの気分に合っている、ような気がするから。
けれど、明日どうなるかは、わからない。
なにも決めつけなくていい。
流動的でいい。
そう思っている。
自分のセクシュアリティを%で説明
「いまの自分をパーセンテージで表すなら、男性が50で女性が50ですね」
つまりちょうど半々だ。
もともとは「FTMとして生きていきたい」との想いがあった
「人間として生まれてきたからには、男性か女性か、性自認をはっきりとさせなくてはならない。そう思っていたんです」
自分は男なのか? 女なのか?
「中学高校ぐらいは男性80、女性20ぐらいの気持ちだったんですけど。年齢を重ねるうちに50対50に落ち着いた感じです」
自分のセクシュアリティは、クエスチョニングと呼ぶのだろうと思っていた。
けれど、最近ふっとしたことでクエスチョニングではなくXジェンダーと呼んだほうがしっくりくることに気がついた。
「セクシュアリティについて知識が増えるにつれ、性には多様性があることを知りました」
その頃から、自分を男か? 女か? という二元論に当てはめることをやめるように。
「そうすると、気持ちがとても軽くなったんです」
「恋愛も、ファッションや物、言動、娯楽も。『男性だから。女性だから』という意識から選ぶのではなく『自分が好きだから』でいいんだと思えるようになりました」
02活発だった小学生が一転、登校拒否に
ピンク色とスカートが大嫌いな子ども時代
生まれは山口県下関市。
キャリアウーマンの母と単身赴任の父、3歳年下の弟。
そして祖母と4人で暮らしていた。
幼い頃から元気いっぱいで、外に出ると男の子とちゃんばら遊びに夢中。
その反面、家に帰りひとりになるとままごと遊びに興じる。
そんな子ども時代だったように思う。
「外ではとにかく活発で目立つほうだったので、小学校の頃についたあだ名は『番長』でした(笑)」
女の子らしいイメージのものを嫌悪した。
スカートが大嫌い。ピンク色が大嫌い。
母が買ってきてくれた可愛らしく女の子らしいデザインの服は、徹底的に拒否をした。
「絶対に着たくない!そのあたりははっきりと主張できる子どもでした」
「私が拒否するので、お母さんはせっかく買ったのによく返品に行ってました。いま考えれば申し訳ない話です」
母は教育熱心な人で毎日毎日「勉強しなさい!」と、はっぱをかけられていた。
「とにかく叱られるのが怖くって。それと、私も負けず嫌いで(笑)」
「勉強には絶対に手を抜かなかったので、成績はかなりいいほうでした」
中学は受験し、中高一貫教育の学校へ進学する。
中学2年で登校拒否に
制服は、大嫌いだったスカート。
制服だから仕方がないんだ、と自分を無理やり納得させた。
「クラスでの立ち位置も小学校時代とまったく変わりました。中学に入ると『目立ちたくない』っていう思いが強くなったんです」
「陰と陽で言えば、どんどん陰の部分が強くなっていた感じかな」
男女共学とはいえ、学年の6割は女の子だった。
「中学2年生の頃だったかな。女の子のグループにいることが苦痛になったんです」
「女の子って、どこに行くにも必ずみんな一緒じゃないとダメ、って感じじゃないですか」
「誰かがAといえば、みんなもAだと言う。そういうのに馴染めなかったんです」
その頃の女子の関心事といえば、コスメ。
みんなが可愛いというコスメに、当時はまったく興味を持てなかった。
「知識がないわけじゃないんです。ただ『女の子は化粧しなきゃいけないものなの?』『化粧する意味があるの?』という思いのほうが強かったですね」
うつ状態と診断されて
日々積み重なっていくモヤモヤは、ある日制御不能になる。
「突然学校に行けなくなったんです。バス通学だったんですが、学校に向かう行きのバスを降りた瞬間に『もう帰ろう』と思って」
「そう思った瞬間には、もう向かいにある帰りのバス停に歩きはじめていて。そのまま家に帰りました」
出かけたと思ったらすぐに帰ってきた姿を見て、当然家族は驚いた。
その日から登校できなくなった。
数日後、母に連れられて心療内科に行くことになる。
「うつ病になる一歩手前の『うつ状態』だと診断されました」
薬を処方され、服薬することになった。
03セクシュアルマイノリティではないか
私は、性同一性障害?セクシュアルマイノリティ?
中学の頃に「ゲイ」「レズビアン」と呼ばれる人たちがいることを知った。それが引っかかり、ネット検索を繰り返す。
そこで性同一性障害という言葉を知った。
次第に自分がそうではないかと思うようになる。
同じころ、家の中でだけ、自分の一人称を変えてみた。
山口の方言では女の子の一人称は「うち」。
その「うち」を中学2年生の頃に「俺」に変えた。
「最初に俺って言ったときのドキドキ感はいまも覚えています。俺って言ってから、さりげなく家族の反応を見ていたというか」
「みんなあまり驚いた様子はなかったので、よし家の中ではこれからは俺でいくぞ! って(笑)」
「学校では変わらず『うち』でしたね。そこは変えられなかったです・・・・・・」
胸に対する違和感
成長期に入り胸が丸く膨らんでいくことも耐え難かった。
「すごく嫌で。ちょうどその頃、弟が水泳を習うことになり、私も一緒に習うことにしたんです」
「それまではぽっちゃり気味だったんですけど、水泳を始めてから痩せて、体型も筋肉がついて肩も大きくなり腹筋が割れて」
憧れの男子の身体に少し近づいた。
「大嫌いだった胸は小さくペタンコになりました。なによりそれが嬉しかったです」
水泳によって身体が引き締まり、胸の存在を気にしなくてもいいようになった。
「『水着を着るのが嫌で水泳の時間をサボっていた』というセクシュアルマイノリティの方もがいらっしゃるみたいですが、私はそれはなく」
「その当時、心は男だったけど身体が女であることはある程度は受け入れていたんです。だから胸を取りたいとは思わなかったです」
「水泳で小さくすることができるのなら、それでいいと。水着を着るのはたかだが1時間程度。それなら水泳を頑張って男の子みたいな身体に近づけたほうがいいと思ってました」
04イキイキと生きてないという窮屈さ
自分らしく生きてない。その感覚につきまとわれて
学校に行けなくなった理由――。
女の子独特の集団行動や彼女たちが好む会話についていけなかったことのほかにも、もうひとつあった。
「自分を抑えている感覚が、いつもどこかにつきまとっていたんです」
「自分は自分らしくイキイキと生きることができてない、という思いがあって」
とても窮屈だった。
「そう感じていたのに、それでも必要以上に『でも女の子はこうあるべきなんだ』『女の子らしい会話や立ち居振る舞いをするべきなんだ』と自分で自分を縛りつけていました」
「結局心の折り合いがつかずに、苦しくなってしまったんです」
そこからは学校に行ったり、行かなかったりの繰り返し。
精神状態によっては、週に1度しか行けないときもあった。
虚無感を満たしてくれたのはエンタメの世界
そんな毎日を繰り返すなか、両親から「なぜ学校に行きたくないのか?」
と訊かれることはなかった。
それでも母は、朝必ず起こしにきた。
布団をはがし「準備しなさい、車で送るから」という。
母は忙しく働くキャリアウーマン。
自身の出社もあるため、いつも途中でおばあちゃんと役柄を交代することになる。
「おばあちゃんは優しいから。一応お母さんから私を学校に送り出す役を引き継ぐんだけれど、結局はいつも『そんなに行きたくないんなら』って折れてくれて」
休んだからといって、これといってやることはない。
部屋にひとりでいると、ひどい虚無感に苛まれてしまう。
「そんなとき、私を救ってくれたのはエンタメの世界でした」
「テレビを観たり、ネットやアニメを観たり。その世界に夢中になっているときは、虚無感を忘れられたんです」
そのとき感じた気持ちが忘れられなかった。
「あの経験があったから、就職を考えはじめたときに『エンタメの世界に行きたい』と志すようになったんだと思います」
保健室で告白、「性同一性障害だと思う」
たまに登校できてもクラスに入ることができないことがあった。
そんなときは迷わずに保健室へ向かった。
当時は学校の中で唯一落ち着ける場所だったのだ。
「保健の先生に初めて自分のセクシュアリティについて相談してみました」
「その頃は、まだ知識も浅かったので、自分はGID、性同一性障害だと思っていました。そのぐらいしか思い当たらなかったんです」
「なので、先生にも『性別を変更したい』『戸籍を変えたい』というような話をした記憶があります」
保健の先生はLGBTについての知識がなく、ただただ驚くばかりだった。
05制服が自分を解放してくれた
女子の制服にズボンがあった!
学校に行ったり、行かなかったり。
そんな日々を繰り返し高校1年生になった頃、学校である噂を耳にする。
「ひとつ下の女子生徒で、制服にズボンを履いてる子がいるんだって!」
登校した日に急いで確認に行くと、たしかにズボンを履いた女の子がいる。
「『制服にズボンがあるの?』って衝撃的でしたね。それまでまったく知らなかったんですけど、実はうちの学校には女子用の制服にズボンがあったんです」
「ただ、その子以外は誰も履いていなかったので、私も知るのが遅れて」
制服規定を調べなおしたところ、たしかに女子用のズボンが存在していた。
「これだ! って思いました。それで、すぐにおばあちゃんにおねだりして私もズボンを作ることになって」
ズボンにネクタイを身に着けて
できあがったズボンを履いて登校した。
ズボンを履けることになったのはいいけれど、問題はそれに合わせる上着。
学校の規定では、女子のリボンがついたブラウスに、ズボンを合わせるスタイルだった。
「その取り合わせがあまりにも変で(苦笑)。カッコ悪すぎて、私には耐えられなかったんですね」
「それで、男子の先輩から男子用のネクタイを譲っていただいて。それをつけて登校してたんです」
当時の髪型はベリーショート。
ネクタイにズボンの制服を身にまとったとき、心が格段に軽くなった。
その姿で登校すると、女子から「カッコイイ」と言われることもあり、それも嬉しかった。
この頃には自分はFTXだと考えるように。
「水泳をしていたからか筋肉があり胸が小さかったこともあって。性別適合手術をしなくても、いまの体で十分男性らしさが伝わると思えるようになりました」
「自己の解放じゃないですけど、気持ちが途端に楽になったんです」
「自身の性に対してのモヤモヤをずっと抱えていたけど、それを解放していいかどうかわからなかったんです」
「そんなときに私を助けてくれたのは、制服のズボンでした」
気持ちが楽になり、登校できる日が少しずつ増えていった。
自分がやるべきことを感じた瞬間
多くの先生はなにも言わずにその姿を黙認してくれていたのだが、ある日ひとりの女の先生から注意を受ける。
「『ほかの下級生たちが、あなたのことを男子か女子か理解できなくなる。だからそのスタイルを許しておくわけにはいかない。やめなさい』と言われました」
「あぁ、こういうふうに理解してもらえないことがあるんだなと。そこからですね、セクシュアルマイノリティの人たちが偏見をもたれないように、世の中に正しい知識が広まっていけばいいなと考えるようになったのは」
今後生きていく上で、自分がやるべきこと。
使命みたいなものを、はっきりと感じた瞬間だった。
<<<後編 2018/06/09/Sat>>>
INDEX
06 初恋
07 初めての交際相手は男の子
08 家族へのカミングアウト
09 男と女のハイブリッドとして生きていく
10 LGBTであることを面接で積極的に告白